東本郷地区の歴史
 東本郷は横浜線小机駅と鴨居駅の中間、南側に位置する。近世には都築郡本郷村と称した。文化文政期(19世
紀後半)に記された「新編武蔵国風土記稿」によれば、その昔は「小机本郷」と呼ばれ小机村の本村であったとされ
ている。
 当時の村は、郡の南東端にあたり、隣村には小机村、下菅田村、鴨居村、鶴見川の対岸は川向村、池辺村に
それぞれ接していた。村は谷戸を中心に拓け、平地は川沿いにわずかにあった。山林が多く、水田は雨水を溜めて
耕しているため、しばしば干ばつにあったとされている。また、村内は天領と旗本領が交じっており鴨居から小机に
抜ける大路は、八王子より神奈川へ通う道のため、神奈川往来と呼ばれていた。19世紀後半になると「農間渡世」
と呼ばれる農業のかたわら商業を営む者が増えてきた。安政二年(1855年)戸数・人口は家数49軒(男118人 
女124人)でした。
 その後、明治11年(1878年)郡区町村編成法にもとづき都築郡役所が設置されると、その管轄下になり、明治22年
(1889年)市町村制の実施により新治村大字本郷となる。明治41年(1908年)に現在の横浜線が開通し、この時、
小机駅・中山駅が開業している。昭和14年(1939年)に横浜市に編入され横浜市港北区東本郷町と命名された。
町名命名にあたってはすでに中区に本郷町があったので同名による混乱を避けるため本郷に東を冠し、東本郷町
としたという。(東を冠した理由は旧新治村の東端に位置していたことに因むものと考えられる)
 昭和37年(1962年)横浜線に鴨居駅が開業され人口の増加が急速に進み、昭和44年(1969年)には東本郷を含む
地域が港北区から緑区に分区された。昭和54年(1979年)には宅地開発が進み1万人を超えた。現在では、東本郷
地区の人口は13,593人、世帯数5,474軒(緑区の人口17万人に対し8%にあたる)が居住している。(平成17年
10月現在)
 東本郷地区は北側に鶴見川が流れ緑地地区が点在しており、かつての豊かな緑に覆われた本地区の昔の姿を
残しながら計画的に宅地開発が進められ戸建住宅や集合住宅など横浜近郊の良好な住宅地として発展を続けて
いる。昭和51年(1976年)に東本郷小学校、昭和63年(1988年)東鴨居中学校が新設された。なお、県立みどり養護
学校の建設にともなう神奈川県による発掘調査では、縄文時代や弥生時代、奈良・平安時代の住居跡などの貴重
な遺跡が発掘されている。平成5年(1993年)には東本郷小学校に、緑区初のコミュニティスクールが開設され、
東本郷地域ケアプラザ、東本郷公園、福沢保育所などと共に、東本郷地区のコミュニケーションの場になっている。                                    
東本郷地区では平成13年「東本郷地区まちづくり協議会」が発足し本地区の特性をふまえ、20年後の将来像を
見据えた「東本郷地区まちづくりプラン」が策定された。今後はその実現に向けたアクションプランが逐一進めていく
ことになる。
                             東本郷4丁目  小嶋 延次
私は昭和5年6月生れで東本郷4丁目に住んでいます。戦前の東本郷は48戸の集落で谷戸に沿って家がありま
した。東本郷は谷戸の入り組んだ地形で稲荷谷、藤右衛門谷、鍛冶谷、谷田、森谷等の呼び名がありいずれも
「谷」の字がついていて、村全体が山あいの中にありました。苗字も同じ名前が多く、姓の代わりに「屋号」で
呼び合う習慣が根付いていました。そのほうが相手がすぐ分かったからです。ちなみに私の本家は「音坂」でし
た。
集落は大きくは3つの呼び方がされていました。中心部は「宿根(シュクネ)」といい、それより鴨居寄りを「久保」小机寄
りを「下田(クダリダ)」と云いました。東本郷地域ケアプラザ前の公園「東本郷下田公園」は昔の地名の名残です。
39系統のバス道路は昭和22年〜23年頃に造られました。それまでは細い道路で今のバス停「御嶽前」から
鴨居の長屋門のある岩岡さん宅までは家が1軒も無く周囲は畑や田んぼでした。小学校は今の鴨居の鴨池大橋を
降りてきたところにあり、村のみんなと畑の道を通ったものです。水田で「ざりがに」や「泥鰌」「めだか」捕り
に夢中になったり、叉夏は鶴見川の川向堰で泳ぎました。畑の隅の空き地では藁と縄で造った土俵で相撲をとった
りしました。女の子は学校の教室や廊下で「おはじき」や「お手玉」で遊んでいました。歌を唄いながら、いくつ
かを投げて、受けたり拾ったりして遊んでいました。
学校といえば今から156年程前の嘉永5年(1852年)に鴨居村に大川熊太郎さんという方が寺小屋を開設
されたようです。名を「西谷堂」といい今の鴨居小学校の前身であることは多くの人の知るところとなっていま
す。東本郷にも寺小屋はあったようですが明治11年の学区整理統合で廃校になりました。今日、「本郷学舎」
の存在を知る人は少ないようです。
東本郷には川が1本、村の中央を流れていました。源流は「東本郷第4公園」前付近です。田んぼの近くは湧き
水が多く、冬、氷が張ると「下駄」を使ってスーイ、スーイと滑って遊んだものです。なつかしい思い出です。
川には1箇所、橋が架かっていました。橋の名称は「本郷橋」ですが、昔の村人は「火止橋(ひどめ・かし)」
と呼んだようです。近くに大きな樫(かし)の木があったことに由来しているのではないでしょうか。4丁目の
守賀理髪店の前です。
養護学校の所にあつた神社は昭和40年に今の所に移転しました。「天照大神」「稲荷社」が祭られていますが、
移転に伴って地名をとって「本郷神社」と名づけられました。ここは以前「宗光寺」というお寺がありましたが、
住職も居なくなり荒れ寺になりその後、関東大震災で焼けてしまいそれからは村の寄合い所になっていました。
宗光寺の名はケアプラザ周辺や5丁目の電柱にいまも残っています。電柱の管理番号を見て頂くとわかります。
日鋼団地の上のほうにミニ富士山がありました。富士講の人達が毎年登山をされていましたが浅間社は、今は、
ばらの会団地と日鋼団地の境目に昭和40年に移転されています。
東本郷が急速に様相を変えはじめたのは昭和39年に始まった宅地造成です。鴨居駅が昭和37年に開業し、日本
の高度成長とも相俟って、集合住宅は第一団地、1戸建ては日鋼団地の造成が始まりで、その後次々に造成が進み
ました。人口もそれまで500人だったものが昭和40年には1,000人を突破し昭和54年には1万人を超え
ました。まさにあっと云う間の変貌といえます。
今東本郷にお住みのみなさん方はほとんどが昭和39年以降の宅地造成後に東本郷にこられた方々です。
昔の東本郷を少しでも知って頂ければ幸です。
S39日鋼団地
S51三菱団地
S60東本郷
東本郷の歴史名所ぶらり旅
本郷神社 〔四丁目〕
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昔は稲荷社・神明社があり共に村の鎮守であった。「風土記稿」によると神明社は大正10年に稲荷社に合祀され
た。昭和40年稲荷社は町の中央に遷座し本郷神社と改称し創建された。
庚申塔
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" 本郷神社入口に元文2年青面金剛像を刻む庚申塔が佇んでいる。その他モリガ理容店前(四丁目)と御嶽バス
停付近(六丁目)に、町内に残る近世の石造物として、庚申塔や文化10年〔1814年〕10月在銘の山状角柱型の
地神塔と百万遍供養塔がある。
庚申塔は中国、晋の時代道教の思想が10世紀頃日本に伝わり盛んになった信仰で、仏教や庶民の信仰と結び
ついて発展し江戸時代には全国の農村などで大流行した。病魔・病鬼を払い除くと云われる青面金剛像や謹慎の
態度を表すという三猿を彫ったものを良く見かける。文字だけを刻んだものや観音様やお地蔵様の姿のものもある。
当時盛行した民間信仰の名残を今日に伝えている。"
椿塚 〔六丁目〕 
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 東本郷町バス停付近には、明治5年「椿塚」の句碑が立っている。これは本郷・菅田・小机付近の俳人達の句を
刻む。「椿塚」とは、この付近に古への鎌倉道が通り、その一里塚が椿塚であり、塚上に椿の老樹が植えられた
ことに因む。今は記念碑と後人が植えた椿の木が往時を偲ばせてくれる。"
 東観寺と俗体男女並坐像浮彫墓標 〔一丁目〕
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古義真言宗 瑞昭山慈眼院東観寺。天平の頃、行基がこの地を訪れ、聖観音を彫刻し、精舎を建立したと伝えられ
る。寺宝として龍神像や梵字で線刻された文殊菩薩像等がある。寺は小机領三十三子観音の三十二番札所として
有名。子年ごとに御開帳となる「子年観音」として今日でも多くの人々に信仰を集めている。
 俗体男女並坐像浮彫墓標(横浜市指定文化財)が境内にある
寛文11年に建てられたもので、農民の夫婦が頭巾・袴・裃・脇差し・手に数珠を持って座っている姿は当時の農民
の正装である。素朴な姿や形に江戸時代が偲ばれて離れがたい。この様に男女の姿の墓標は大変珍しいもので
ある。"
東耕地遺跡 〔五丁目〕
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県立みどり養護学校がある台地上一帯は、東耕地遺跡と呼ばれ、昭和54年・56年に発掘調査が行なわれた。
落とし穴(縄文時代)、竪穴住居・方形周溝墓〔古墳時代〕、掘立柱建築遺構〔平安時代〕等が発見された複合遺跡
である。多くの出土品から、この地域の有力者の集落跡と思われる。
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                  神奈川県横浜市緑区東本郷 5-5-6
                  TEL 045-473-7670